夢CAMSスタジオの菅原里奈さん
菅原さんは黒崎でボイストレーニング教室を経営しています。
実は北九州に来た時に、かなり初期の段階でうちのカフェ会に参加してくれたんですよ。
あの時は有名な方だとは知らなかったのですが、
改めてインタビューしてびっくりしました。
インタビューはここから
こんにちは。色々お話を聞かせてください。
はい!
菅原さんはどのようなお仕事をされているのですか?
私ってとっても欲張りなので、私が関わるサービスや商品は主に3つ、それに繋がるものも入れればたくさんあります。
3つ😳
では順番にお聞きします。
1つ目をお願いします。
はい、1つ目は私自身です。
現在の私の職業は、ボイストレーナーです。
私は北九州市に移住する前、東京で約35年に渡り、プロ歌手、ボイストレーナーとして活動をしておりました。レッスン生は今まで延べ1000人以上になります。最初は音楽学校や芸能プロダクションで歌手や声優を目指す新人さんを対象に教えてきたのですが、ボイトレは呼吸法や発声法で健康にも結びつき、脳の活性化やメンタルなどにも多大なる影響を与えることが分かってきたので、今では広く一般の方にもその効果を知ってもらおうと頑張って活動しています。
歌手とか声優さんにボイストレーニングをしてたんですか!?
すごいですね。
なんかものすごいトレーニング法を知ってそうです。
私のトレーニング法は、自分も歌手を目指していた時に発声方法で苦労をしたことから始まりました。
その頃の日本はまだまだ「声」に関しての専門家が少なくて、的確に声の出し方を分かりやすく教えてくれる人がいなかったんです。(日本は発声に関しては遅れている)この苦労や嫌な思いを受講する人に与えたくない、もっと楽しくて気持ちの良いものなんだよ!という事を伝えたかったんです。
なるほど。やっぱりひとりひとり、適切なやり方も違いますよね。
そうですね。今まで老若男女、年齢層も幅広くレッスンして来たので、その人の声を聞いただけで何処をどうすればベストな声に早変わりするかというのが判断できて分かりやすく的確に指導ができると思います。
2つ目は、ボイトレ講師として活動している中で、今までのノウハウを活かして独自に開発して作った発声補助器具「ハローボイス」です。
なんですかそれ!?😳
最初は音楽学校や声優プロダクションで教えていたので、生徒は声のプロフェッショナルを目指している若い子が多かったんです。デビュー目指して熱心に通っていた割には自分の本当の声を知らずに間違った発声方法で過ごしている方が多かったんですね。
何か一発で「自分の本当の声はこれだ!」と体感できる様な方法は無いかと思ったのが開発のきっかけなんです。
「ハローボイス」はペットボトルを切ったところから始まって3年間生徒にモニターになってもらいながら試行錯誤を繰り返して作り上げました。
最終的な形状は歌手が歌っている口の中の状態を3Dでスキャンして立体化させました。なのでそれを口の中に装着するだけで歌手が歌っている時と同じ口腔状態を体感できるのです。自分の声とは一生のお付き合いになるので、ハローボイスは年齢に関係なくいつからでも始められることが利点だと思います。
3Dとか、すごいテクノロジーを駆使してますね。
「ハローボイス」の発売をきっかけに若い方ばかりでなく年齢層も広げて、高齢者向けのレッスンやカラオケ教室、健康ボイストレーニングというジャンルにも展開し、発声を通じて多くの方々を元気にしてきました。そんなことから、移住先でもこの発声のノウハウによって地域の皆さんを元気にしたいという想いが膨らんでいき、同時に自分にできる事で人々に喜んで頂けることを提供していきたいという気持ちが強くなりました。
なんか想像以上にすごいです。
3つ目は「スタジオ運営」です。
東京ばかりでなく福岡の皆さんにも自分が今までやってきた事を貢献できる様に、また私のトレーニングを活用して元気になって頂きたいというところからホームグラウンドにあたるスタジオを作りました。
現在はこの自社スタジオで健康ボイストレーニング講座、カラオケ講座を開いて活動しています。
なるほど。スタジオがあればかなりやりやすいですよね。
声を出すことは呼吸法も含めて声帯の老化を防ぐので健康法にも繋がります。このことを一般向の方にも知って頂くためにはスタジオを運営した方が早いと考えたんです。
一般向けであれば、習いたい人は多いと思いますよ。
しかも多目的スタジオにしたので、自分の講座以外の空いている時間は、インストラクターやセミナー講師をやっておられる方にも利用して頂きたいと思い、解放しています。
空いてる時間に開放していただけるのは嬉しいですね。私もいつか使わせていただきたいです。
私のレッスン方法は、分かりやすく!楽しみながら!をモットーにしています。誰でもそうだと思いますが、レッスンを受ける方々は効果や結果を早く出したいんですよね。そのリクエストに応えてあげることが私の役目なんです。
なのでレッスンでは、まずは「現状の気づきと発見」そしてそれを立て直していく「ノウハウ」を体感してもらう。その後は体に馴染ませて応用していく。そうすれば出来ることが増えていって自分の変化を毎回楽しく感じていけるんです。
また、コロナが落ち着いたあとのこれからはセルフケアが必要とされます。
コロナ禍で医療機関が具体的な治療法も打ち出せないまま、いかに頼りない存在であるかというのを痛感しましたよね。
健康に関してはこれからは予防医療の時代なんです。まず自分自身で免疫力を上げていかに病気にならない身体づくりをするかが大事なんです。
最近になってやっとボイストレーニングは免疫力アップに絶大なる効果があるというのが認知されて医療業界でも取り上げられる様になりました。これを機にますますボイストレーニングで世の中を元気にしていきたいと思います。
ボイストレーニングで免疫力アップは一石二鳥ですよね。
ところでボイストレーナーって、資格みたいなものはあるんですか?
いえ、ボイストレーナーは国家資格とかないので、その気になれば誰でも成れます。東京なんかはスキルを問わなければゴマンといます。
ですよね。そんな感じがしました。
でも菅原さんは1000人以上を教えて来た実績と経験値や、「ハローボイス」を考案したという事で、その中でも抜きん出ていると思います。
ありがとうございます。
他に「抜きん出ているエピソード」はありますか?笑
トレーニング法などのオリジナリティが買われて東京ではテレビ埼玉のカラオケ番組で歌唱審査指導員として出演しています。
改めて、思ったよりすごい人が目の前にいる事を実感してます。
菅原さんはどのようにしてボイストレーナーになったんですか?
劇団文学座(松田優作、田中裕子、黒柳徹子、渡辺徹などを輩出した)研究所を卒業して女優を目指していましたがひょんなことから歌手の道へと方向転換しました。
ですが、デビュー前のレッスンを受けている時に演劇での発声方法と歌唱の発声方法が全く違うので悩み苦しみ、色々な先生に習ったのですがどれも納得できるものではなく、やればやる程沼にはまっていったんですね。
最後に教えていただいたボイストレーナーの先生でやっと発声に関して納得できたのと、その頃ニューヨークに行って受けたボイストレーニングによって真の発声方法に目覚めることができました。
なるほど。最初から芸能関係のお仕事を目指してたんですね。
最初のうちはタレントとして華々しく活動出来てて良かったんです。芸能と音楽にどっぷり浸かった生活をしながらタイミングよく芸能プロダクションに所属できて新人歌手としてデビューするチャンスを掴んだんですが、レコーディング直前に会社の経営状態が悪化して倒産の危機に。
不運ですね。
そして立て直す為にヤバい組織に身売りされる計画を知りました。
そんな事あるんですか!?😳
それが普通にあったんですね〜。もうコレでは自分の人生は崩壊すると思い、広島に営業(芸能界でいう営業とはプロモーションイベントやキャンペーンステージのことを意味します)で行く直前にドタキャンして逃亡しました。身売りされる前だったので組織に追われることは無かったのですが、「落とし前をつける」と言う事でそのツケが自分が背負う借金になってしまいました。借金は辛かったですがこれでやっと無事に退所する事ができました。
ヤ◯◯みたいですね…
芸能界では一般的によくある事ですね。無事に退所はしましたが「表には二度と出るな、出たら潰す」と脅されたので、仕方なく地味に生きる決意しました。
ますますヤ◯ザみたいです…
でも良かったことは、この騒動で芸能界の仕組みや闇を知ることが出来たのでもう怖いもの無しです。
思ったより深そうですね、闇。
闇は表に出る事はなく無かったことにされるのでそれなりに深いですよ〜。本当のこと知ったら夢がなくなりますのでここではオミットしておきますね。
そんな事から私としてはしばらく干されている間は表に出ることを控え地味にクラブ歌手やスタジオレコーディングの仕事で生活していました。
真面目に仕事に取り組んでいたので、そのうち音楽学校、声優プロダクション養成所、芸能事務所で教えないかと誘われ、教えることが増えていきました。
ですが先ほどもお伝えした通り、その時に日本人の、あるいはタレントの発声方法のレベルの低さに気づいて驚いた訳です。
真面目に取り組むのって大事ですね。
一生懸命やっていればやはり誰かは見ていてくれるんですね。
その時の役目は、所属のタレントさんをオーディションに合格させてプロとしてデビューさせる事だったので、どうやったら良い発声方法を習得して活かしてもらえるのかを日々研究していました。そして発声論やノウハウを整理するつもりで声のブログを書き始めました。
そうしているうちにブログ繋がりで、アメリカワシントン州に在住の「英語喉」の著者上川一秋先生と縁ができ、アメリカ人の奥様であるジーナさん(ネイティブ発音のインストラクター)が提案したペットボトルの発声法に感銘を受け、日本で活用する許可をもらい、所属タレントさんたちのレッスンで使い始めました。
ブログ→アメリカ
って、スケールが…
そして3年の歳月が経ち、ペットボトル発声法が抜群の効果あり!と確信したので本格的に商品化を目指しました。
それと同時に自分が表で活動していくには、所属するのではなく法人を立ち上げ経営していくしかないと考え、長年携わってきた音楽制作とボーカリスト育成を目的に2010年6月、合同会社アニマートを設立しました。
そして同じく芸能界で悩んだり活動できずにいる人たちの救いとなればと思い、サポートできる様なシステムを作ろうとレーベルも立ち上げました。これは現会社の基盤になっています。
レーベルまでも😳
その後、東京で自分の活動も少しずつ落ち着いてくると、今度は人生について色々考え始めます。ずっと走りっぱなしでしたのでここで本当に自分のやりたい事、自分の使命を原点に戻して、改めて見直そうと思いました。
そして還暦をきっかけに40年近く住み慣れた東京を離れ移住する事を決意したのです。
なるほど。それで北九州に。
なんか北九州を選んでいただいてありがとうございます。
確か最初にうちのカフェ会に参加してくれたんですよね。
そうなんですよ〜!よくぞ聞いて下さいました〜!
北九州に住むのにも友人がいたわけでもないので、ネットから情報を集めまくってました。たまたまTwitterでカフェ会の事を知り、そういう会に参加したこともないし若い人向けだと思っていたのでしばらくはLINE登録だけだったんですが、物件探しで福岡に来る時に思い切って参加表明しました。。確かカフェ会では初の高齢者?参加だったような気がします。
でもお陰様でその時に隣に座った方と北九州初のお友だちになりました。
圭さんとも知り合えて、こうやってヒトガラスタイルに掲載していただける事にもなり「ありがとう!カフェ会、ばんざい!カフェ会」です。
私の北九州生活はまさにカフェ会から始まったと言っても過言ではありません。
そう言っていただけると嬉しいです。
菅原さんの今後の目標とか、ありますか?
まずは絶対目標として、地域の人たちを声と歌で元気にして盛り上げたい!ですね。
自分で言うのも変ですけど、「ハローボイス」は本当にミラクルを起こすとても良い商品だと思いますし、ボイストレーニングは、自分の新たなる声の発見でライフスタイルが変わるきっかけを作ってくれると思います。なのでもっとたくさんの方に知ってほしいと思います。
そして、音楽制作分野も長くやってきたので、音楽活動をされている方やオリジナルソングを歌ってみたい方、CDや配信で全世界に発信したい方に、サポートをしてあげられたらと思います。
では最後に、これを読んでくれた方に何か一言お願いします。
プロデュース業、音楽制作、ボイストレーニング、カラオケ講座やってます。
今現在、歌が上手くなりたい人、元気になりたい人、音楽活動でカラオケ配信やCDを全国発売したい人を募集しています。やってみたい事がありましたらまずはご相談下さい。しっかりサポートいたします。
菅原里奈さんのプロフィール
名前: 菅原里奈(本名:相原美恵)
誕生日:1960年5月12日(木)晴れ
出身:出生地長野県、育ち千葉県
出身学校:千葉大学教育学部附属小、中学校。
千葉県立検見川高等学校
家族構成: 菅原家両親の元、長女で生まれ弟が1人いる。
結婚して一女を授かるも離婚してシングルマザー。今は娘も独立して東京と福岡を往復の二拠点で一人暮らし。
好きな食べ物: 好き嫌いはあまりないのですが、特に食べて嬉しく感じるのはアメリカンドッグのスティックについたカリカリ、焼きシャケの皮、生クリーム、が好き。あと北九州に来た時に初めて食べた かしわうどんは絶品と思った。
趣味: 映画、芝居を観ること。カラオケ。
夢&目標: 黒崎にレンタルスペースを作ったので、そこを起点に音楽でも、カルチャーでも良いから人の助けやサポートになれるように活動していくこと。
エンターテイメントの発信地となる様に頑張りたい!
得意なこと: 音楽制作、プロデュース、ボイストレーニングや歌の指導、デザイン。
尊敬する人: 笹原俊
ところで歌手としての活動や私生活などもかなり波乱があったと聞きましたが。
はい、デビュー直前に挫けて地味に裏方の仕事はしてきましたが心機一転、1993年に音楽仲間のプロデュースによってメジャーレーベルからデビューというチャンスを頂き、CDアルバムをリリースし、DAMやジョイサウンドのカラオケにも配信されました。しばらくは順調に音楽活動をしていたんですが仕事一筋に疲れちゃった時期があり、その時に仕事仲間であった音響照明会社の社長と結婚し、娘を出産しました。出産1週間前までレコーディング仕事してたんですよ〜(笑)
ですが、よくありがちなお互いの生活のズレという理由で娘が2歳の時に離婚、シングルマザーとして娘を育てながら講師の仕事と音楽活動を続けてきました。
今はその娘も成長し、博多でブライダルプランナーとして働いています。
子育て期間は大変でしたけど、楽しかった事の方が多かったですね。
そんな人生を与えてくれた娘に感謝です。
1973年4月 | 千葉大学教育学部附属中学校入学 小学校低学年の時に児童劇団に所属して子役でテレビドラマ等に出演していたが学校にバレてしまい、芸能活動をとるか学校を取るか選択を迫られ、泣く泣く劇団を辞めた。その反動で中学に入学した時に演劇部を希望するがその頃はまだ文化系が合唱部しかなかったので仕方なく合唱部に入り、合唱部の目標であるNHK合唱コンクール県大会で優勝を目指した。(県大会優勝を果たし、NHKラジオでオンエアされた) |
1976年4月 | 千葉県立検見川高等学校入学 その頃謎の学校群制度というのがあって、ランダムに振り分けられる受験制度が嫌で、ワザと演劇部のある高校を選んだ。そして念願の演劇部へ。ここでオリジナルの脚本をもとに創作演劇で全国大会を目指すも県大会優勝にとどまった。 |
1979年4月 | 劇団文学座付属演劇研究所(専門)入学 東京大学受験合格者を出す超進学高校であったが担任が音楽の先生ということもあり、演劇科に進むのを理解してくれたので演劇への道を躊躇なく選んだ。当時松田優作を輩出した劇団としても有名だった第一希望の劇団文学座に、30名の募集に対して800余名応募の中、見事オーディション合格。女優への道を歩み始める。高卒で入所した18歳組が7人いて、最高齢35歳の研究生を同期として一緒に過ごした1年はすごく刺激があった。(そのうち5人は今も俳優、ナレーター、歌手、演出家として活躍している) |
1980年3月 | 劇団文学座付属演劇研究所(専門)卒業 卒業公演間近、幸か不幸か真剣にお付き合いする彼氏ができ、つい現を抜かしてしまい、卒業選抜に落選。卒業後はしがなくエキストラのバイトを始める。 たまたまエキストラで参加した今村昌平監督の『ええじゃないか』で松竹映画のスタッフの目に留まり、撮影所では桃井かおり、倍賞美津子の吹き替えをやりながら、その頃流行ったはとバスの「映画ロケコース」のガイド役『ええじゃないか娘』に抜擢され、全国の新聞、マスコミに取り上げられる。撮影期間中の3ヶ月間はチヤホヤされた心地よい生活を送った。 |
1980年10月 | 株式会社千葉テレビ放送、番組契約。音楽番組に出演。 撮影所でチヤホヤされた生活を送っている時に、地元千葉テレビの音楽番組で女性アシスタントを探しているという情報を得て、知人の薦めもあってオーディションに参加。番組アシスタント、映画レポーターとして番組出演が決まる。 (音楽番組『テレジオ7』はその当時まだ少なかった洋楽のミュージックビデオを流し週間ランキングを視聴者の投票で決めるという今や伝説の番組。マツコデラックスさんも推しの故ジャガーさんもスポンサーでCMに出演していた) |
1984年9月 | 同社 番組終了 ありとあらゆるバンド(聖飢魔II、爆風スランプ、TMネットワーク)来日外タレ(外国人タレント)を生で取材した。 中でも印象深いのはリチャード・ギア。その当時、かの有名な翻訳家の戸田奈津子さんが通訳だった。記者会見とはいえ、指名されて直接質問して会話ができたことは嬉しかった。 また伝説のガールズユニット「バナナラマ」のメンバーとも東京ディズニーランドに行って取材したり、色々なアーティスト、俳優、タレントにインタビューし、レポーターとしても良い経験をさせてもらった。 そんな刺激満載の番組も4年間出演ののち終了となった。 番組も終了し、仕事が無くなってしまったので音楽番組の影響から友人に誘われてバンド活動を始める。同時に歌を本格的に習い始める。 そして歌で生計を立てようとあらゆるオーディションを受けまくった。 特異な仕事としては、千葉県警察学校のアトラクション、機動隊のイベント、交通安全フェアのステージと警察関係の仕事を多く受けた。数年に渡り千葉県警関係のステージに出演したので、千葉県警察本部長から表彰されるまでに至る(この時に授与された記念メダルは小倉の家の玄関に泥棒よけに飾ってある) 【しかし調子の良かったのはここまでで、この後は、人生最悪の一番どん底の混沌とした大殺界人生を送ることになる】 |
1984年12月 | 音楽プロダクション所属 親戚の叔父の友人が芸能プロダクションを始めるにあたり、歌手を探しているというのでそこに所属することになった。デビューに向けて更なる歌のレッスン、スタイリスト付きの宣材撮影、楽曲制作、とスケジュールをこなして行った。 だがしかし、当時はデビューするのに数千万かかるという背景があり、主要スタッフの派手な接待と使い込みが元で、デビュー曲のレコーディングも終わっていよいよプロモーションという時に倒産の危機に直面する。 デビュー直前、キャンペーンも決まり、広島での営業仕事を受けるが、実は広島の興業主に身売りされるという事が分かり、一世一代の大芝居でドタキャンして逃亡した。その後、それまでかかった経費とか損害賠償を請求され、300万円を支払うことで退所は出来たが、そのままそっくり自分の借金となった。また「芸能の仕事をするな!表に出てきたら二度と出れないように潰してやる」と脅されたので、渋谷や銀座に歌手を派遣する音楽事務所と契約して、地味に銀座や赤坂、渋谷のクラブで細々と歌って生計を立てた。 |
1985年6月 | 東京と千葉の往復と、終電で帰宅する毎日に疲れ果て、育った千葉市を離れ上京、東京都板橋区に一人暮らしを始める。 東京に住むようになってからは少しずつ時間の余裕はできたが、表の活動の謹慎をまだ引きずっていたので、1人よりも軍勢で活動した方が良いと思い女性ボーカリストだけを集めた『LIPS』というユニットを作り(今のAKB48のようなもの)ライブやイベント活動を行った。そのうちテレビ局からも声が掛かって番組にも出演したりした。 |
1986年 | 1984年から所属の音楽家派遣会社のジャパンユニオンが新設の音楽学校インクスで事務所の社長から講師をやってみないかと声を掛けられ、ボイストレーナーとして歩み始める。(これが後々、自分の人生を好転させるきっかけとなる) |
1989年6月 | 板橋区の1Rアパートから北区王子2DKの団地に引っ越す |
1989年10月 | 有限会社 木倉事務所、所属歌手契約 講師をやりながら赤坂や銀座のクラブで歌っているうちに新橋の第一ホテルのラウンジのレギュラー出演が決まる。 この頃からスタジオレコーディング仕事も増えて来た。今でいうガイドボーカルの仕事で月に5、6曲はレコーディングしていた。(レコーディングした曲は300曲にものぼる)そんな中、木倉事務所(当時の芸能界では力があった有名事務所)の社長にスカウトされ、華やかなショービジネスの世界に足を突っ込み、ポップス歌手として様々なイベント、ショー、ライブに出演した。 |
1992年8月 | 木倉音楽事務所社長の突然の逝去によりプロダクションが存続の危機に陥り廃業宣言。やむを得なく同社 退職 |
1993年2月 | 事務所の後ろ盾はなくなってしまったが、今までの仕事繋がりでフリーとして歌手活動を継続しているうち、音楽仲間のプッシュもあって、ヴァーンメディアレコード(ポリドールレコードレーベル)より「Flame/LINA」にてアルバムデビュー この中の代表曲が各メーカーのカラオケ機器に入曲 |
1994年9月 | 株式会社オフィスCHK、CHK声優センターに音楽講師、声優の滑舌・演技指導者として契約。 歌手仲間が仙台に移住することになり、それまで彼女が教えていた声優プロダクションの講師の空きが出た為そこのアニソン歌手養成クラスに配属される。 以降、人からのつながりと紹介で各種プロダクション所属のタレントのボイストレーニング、レコーディングによるディレクションを請負う。 |
1996年3月 | 長年仕事仲間だった音響照明会社の社長となんとなくタイミングが合い結婚。 |
1997年2月 | 娘が生まれる |
1999年 | 1年間かけて上手な離婚方法を勉強し、円満離婚。娘は引き取りシングルマザーとなる。 子育てをしなければならないので依頼される仕事は全部受けた。 歌手としての仕事と並行して講師仕事が増えていった。 その当時の仕事は、NHK文化センターにてゴスペルコース講師、健康ボイストレーニング講師等、全部合わせると月にほぼ30日、オフ日が無いほど毎日仕事をしていた。 |
2003年12月 | 小説「ため息の向こうで」小説サントラCD「ため息の向こうで」発売 娘が小学校へ入学したのを機に、昼間の時間を有効的に使おうと思い、小説を書き始める。長年芸能界にいるとオモテももウラもよく分かってきて、闇も知った。暴露するつもりは無かったが妄想していたらどんどん話が膨らんできて、書き出したら筆が止まらなくなり、2ヶ月で書き上げた。試しにそれを出版社に投稿したら小説の出版が決まったので、小説に出てくる曲をCDにしてみたらという事で小説とCDを同時発売することにした。 |
2006年頃 | 教える事に手を抜くことができない性格なので、徐々にストレスが溜まって行った。そのストレスを無くすために、受講者が発声方法を一発で体感できて歌が上手になる器具は無いものかと探しているうちに、それなら長年の経験を元に自分で開発してみようと思い立った。 Youtubeで「英語喉」の著者、上川一秋氏の発声発音理論に共感し、メールを送ったのがきっかけで繋がりもでき、そこから発声、発音カリキュラムの組み立て、製品の試行錯誤、試作品の実験を繰り返し、3年の時を経て『ハローボイス』を考案して製品化、販売に至る。 |
2010年6月 | 音楽制作会社設立。 イベント、音楽制作会社としても地域貢献できるように体勢を整えていくことにした。 |
2010年12月 | ハローボイス、教本、DVD 発売 |
2012年4月~ | 第一興商が経営・運営する「DAM倶楽部」にて 「元気になる!健康ボイストレーニング」コース講師を請負う。その他、読売カルチャーセンター、 荒川区文化事業、文化連盟主催の歌謡演歌講座、NHK文化センター、東京都北区の健康推進事業の講座と、ボイストレーナーとして仕事の範囲が広がっていった。併せて関東でも「ハローボイス」が広く認知される様になった。 |
2018年12月 | 第一興商カラオケ機器「フリーDAM」に「元気になる健康ボイストレーニング」のコンテンツが配信される。 そして同時期、カラオケ講座の講師をしている先輩歌手の紹介でテレビ埼玉「エフワン・ミュージックパーク歌仲間全員集合」カラオケ審査指導員を担当 し、番組にもレギュラー出演が決まる。 |
2019年1月 | そんな折、世界はコロナ禍へ突入。 政治と芸能界、政治と医療界が繋がっている闇を知る私にとっては、受講生を早く覚醒させたくてレッスン中にコロナ禍からの覚醒化を図り啓蒙活動を行う。しかしマスコミを使っての世の中の大きな風潮には敵わず、自分の無力さを知る。 そんな事もあってか還暦が近くなるにつれて、娘も成人し大学を卒業して就職したことから、このまま東京であくせく働く自分の余裕がない未来に不安を感じ、移住を考え始める。 |
2021年9月 | たまたま新宿で行われた全国移住フェアに参加する機会があり、そこで移住先を探す。 (その時は、長野、山梨、鹿児島、福岡が候補だった) 娘の就職先の配属が福岡支店な事から福岡を知っていくうちに気持ちは福岡に傾いて行った。 そんな折、北九州市のブースで『程よい都会、程よい田舎』をキャッチフレーズにお試し移住募集の情報を目にして早速申し込む。 |
2022年1月 | 2019年末から始まったコロナ禍を受けて、何も変わらない、それよりか世の中の情勢が悪化していくことに嫌気がさし、移住を早めることを決意。 門司港近くのゲストハウスにてお試し移住を決行。北九州市が主催したZoom面談で担当者だった「夢授業」の会長のアドバイスを受けて北九州市で物件探しを始める。 また移住するのなら移住先でも自分の活動ができる様に長年の夢だったスタジオを作り、今までやって来たボイストレーニングで地域貢献をしたいと考え、自分の住む所を後回しにして、テナント探しに毎月1回は北九州市を訪れた。その際、劇団研究所の同期が北九州市若松区に住んでいることを思い出しコンタクトを取る。そして北九州市移住の相談に乗ってもらう。 |
2022年5月 | 北九州市にお友達を作りたくてTwitterで知ったカフェ会に初参加。年齢的に超浮きまくるだろうというのを覚悟して申し込んだ。 |
2022年10月 | 門司港に始まり、門司、戸畑と流れ、最終的に古い物件だが自分のやりたい事ができる場所だと思い見つけた黒崎のテナントを契約。 自分の今までの貯金を叩いてリフォームと内装に取り掛かるが、思ったよりも経費が掛かり危うくなる。 |
2022年11月 | クラウドファンディングのプロジェクトを決意。資金を集める。 |
2022年12月 | 目標金額達成により、工事再開 同月、今まで40年間近く住み慣れた東京を離れ、小倉北区に転居。 しかし、長年勤めている東京でのカルチャーセンターやマスコミの仕事がまだ継続中の為、東京都内の阿佐ヶ谷にも賃貸契約し、すみっこ暮しをする事にした。そのため1ヶ月に東京ー福岡間を2往復する生活となる。 |
2023年3月 | プレオープンギリギリに内装工事が完了。 |
2023年4月 | 夢CAMSスタジオオープン 現在は、一般の方からの個人レッスンとボイトレ、カラオケ講座を開講し、早く北九州市の生活に馴染む様に色々なイベントや集まりに参加している。 |